時は幕末。長州藩の医者の家系に生まれ、実戦経験が無いにもかかわらず、第二次長州征伐で15万人の幕府軍に対してわずか5千人で挑み、圧勝した軍師がいました。大村益次郎です。大村益次郎は、少数精鋭ながら、自ら学び、自ら実践するリーダーを数多く育て、最新式の戦術と兵器で幕府軍を圧倒します。経験に頼らない経営の見本として、現代でも彼からは多くを学ぶことができます。
とにかく頭で勝負!幕末の軍神・大村益次郎
今日は学ぶことによって軍神となってしまった、幕末の志士・大村益次郎さんの話をやってみたいと思います。
社長研修か、幹部研修くらいで使えるネタなんですが、大村益次郎さんには実は写真がありません。
幕末ですからね、けっこう写真が残っている人が多いんですけれども、大村益次郎さんの写真は残っていなくて、伝聞で「こういう顔だったんじゃないか」っていう形の肖像画があります。
画像:ウィキペディア
1番有名な「顔」はこれだと思うんですが、これ凄いんですよね…頭の部分がね…何て言うの?もう脳みそがい〜っぱい詰まっている感じ?がするじゃないですか。
もうとにかく、めちゃくちゃ頭が良い方です。
その頭の良さを使って敵をガンガンに打ち負かして行くと、それで鬼のように強い!
本当にね〜、ほんとにアレです、アレ。大村無双!!
医者の息子はなぜ兵学校の教授になったのか?
こんな感じで本当に強い方なんですが、もともとは山口県、昔は長州と呼ばれていた、藩で言うと萩藩の出身です。
そこの農村の医者だったんです。もともとはお医者さんです。
ところがなぜか、やっぱり学問が好きでね、西洋の兵学をどんどん勉強して幕府の兵学校の教授になったりして、ゆくゆくは地元の長州に戻って、兵学校で教えることになります。
なぜ医者から兵学校の教授になったり、長州に戻って長州の兵学校で教えるようになったのかというと、その当時の長州は、まさに狂犬のごとく色んな所に喧嘩を吹っかけてですね、もうね〜本当に“ 長州フルボッコ状態 ”だったんですよ(笑)
まずは幕府に喧嘩売るでしょ。それならまだしも天皇にも喧嘩を売っちゃう〜っ!と、それで朝敵になったりして。
それから海外、外国にも喧嘩売るんですよ〜。
アメリカ・イギリス・フランス・オランダに喧嘩を吹っかけまして、いわゆる「外国人排除」の攘夷ですね。
ところが戦争を吹っかけたイギリスには見事に3日で占領されたりしまして、実際に大村さんが見たかどうかは分かりませんけれども、長州関係者はその時に見るんですよ。
イギリスが上陸してきて、そして最新式の兵器を生かす散兵戦術っていう作戦を実行して、人数は長州より圧倒的に少ないのに圧勝しちゃうと。
そいつらの戦い方を見て、「こいつらには絶対敵わない!」「何が攘夷だよ!!あいつらには敵わねぇよ!!!(笑)」って、長州の人達は実感するんです。
長州兵自体は散兵戦術を知っていたんですけれども、大村さんがその時に知ったかどうかは分からないんですね。
なにせ、大村さんがその時にやっていたのは学問ですからね。
散兵戦術を実践するため「自ら考える指揮官」を数多く輩出する
そんな最中に大村さんは長州に帰ってきて、兵学校をやり始めるんですけれど、西洋式戦術の教育をとにかく徹底的にやります。
実際には何をやるかというと、ライフル銃…当時の最新式ミニエー銃を使います。
あとは散兵戦術ですね。要するに、それぞれが散らばって身を隠しながら、ライフルを撃つっていうやつです。
実際に実戦でやったことで史実に残っていることとして、射程が若干長いライフルを使って、遠くから指揮官を狙うという戦術をとことん練習しました。
トップがいなくなれば、その軍隊は総崩れになりますからね。
ところが指揮官を撃つと銃から煙が出て、こちらの場所がバレてしまいますから、対策として撃ったらまた移動するっていうのを繰り返すんです。
それを10人の小隊単位でやっていくんですね。
この戦術の難しいところっていうのは、小隊をまとめる大隊の指揮官が実は指揮を出せないんですよ。
1回みんなで作戦を決めて、よ〜いドンで一旦戦闘が始まってしまうと、小隊のみんながそれぞれ散らばってしまうし、当時は無線なんてありませんからね(笑)
そうすると、現場の判断が1番大切になりますから、小隊長をどんどん教育して作っていかなくてはいけません。
どんどん訓練させて、自ら考え、自ら実践する小隊長がいないと、散兵戦術自体が使えないんですね。
ですから、散兵戦術を使うために、現場の小隊長がとにかく必要だったから、彼らを徹底して教育しました。
自分は実戦経験なんてもちろん無いし、学問だけでやってきた人ですけれど、とにかく大村さんは頭を使ってこういうことを考えました。
弱小藩は広告・採用・教育の弱みをどう克服したか?
さて、現代に戻って、私はいつも中小企業の弱いところ3つを言っていますね。
広告・採用・教育です。
実は長州藩もこれが弱くてですね、同じような状態だったんですけれど、見事に克服しました。
まず、採用はどうしたかというと、高杉晋作さんが、「とにかくもう身分なんてどうでもいいから志の高いやつ集まれ〜!!」って、身分の上下関係なく人材を集めました。
高崎晋作さん自身が5回も6回も脱藩してますから、農民でも何でもいいから俺と来い!!って、そんな侍だとか身分にこだわって無いんですよ。
そして、教育は徹底して大村益次郎さんが小隊長教育をやっていくんですね。1人前に散兵戦術を取れるようにしていきます。
しっかりと、中小企業の弱いところを克服すべく頑張っちゃったんですね。
ところが!ここで逆風が吹きます。
今は観光地となった長崎のグラバー邸をご存知ですかね?
あそこはもともと武器商人のグラバーさんの家なんですけれども、そこから最新式のミニエー銃とかを買っていたのが、幕府にバレちゃうんですよ。
幕府にしてみれば、「おまいら何やっとんじゃい!!」っていうことで、ここで第二次長州征伐が始まってしまいます。
5千人VS15万人でも圧勝!その作戦とは?
さて、いよいよ第二次長州征伐が始まるんですが、幕府軍の中では唯一、薩長同盟で裏で手を組んでいた薩摩藩が参戦しなかっただけで、あと他は全部敵なんです。
なんと兵隊の数は、長州5千人に対して幕府15万人ですよ。数だけ聞いたら、もう無理ゲ〜っ!!という感じです(笑)
しかしですね、一説には長州の戦力は4千5百人とも言われているんですが、ミニエー銃も4千5百丁くらい買って揃えていたようです。
あと他に、ちょっと旧式のものについても、3千丁くらい買っているんですけどね。
対する幕府軍は15万人くらいで、これ人数だけで言いますとメチャクチャですけれど、昔の侍ですからね。
武士って戦わない奴も連れて行かないといけなかったんです。格付けがありましてね、15万人全員が兵隊では無いわけです。
ところが、長州軍5千人、これは全員が兵隊なんですね。
徹底した教育を受けた小隊長に率いられている、ちゃんとライフルを撃てる兵隊が5千人ですよ。
幕府軍は4箇所から長州軍に攻めこみます。
どうなったと思いますか?
実は、大村益次郎さんにとって今回の戦いが、実戦における初陣なんですが、なんと大村益次郎さん自身も千人の兵を率いて、幕府軍1万を各個撃破していきます。
大村益次郎さんの戦術っていうのは非常に簡単で、まず各個撃破をするために、散兵戦術ですから相手をぐる〜っと囲むようにして必ず出口を作っておきます。
逃げ道をね。
そして、基本的に相手の指揮官を狙って指揮官を殺しながら、相手が出口から逃げていくようにして各個撃破していくと。
そういう戦術を幕府を倒してからもやるんですが、この1戦で3ヶ月で長州軍が勝っちゃうんですね。
長州軍の損兵も大体2百数十人で済みます。
いろいろ事故とかを含めて亡くなったそうなんですが、ほぼほぼ戦力を温存したままボロ勝ちしたという、歴史上類まれなる大勝利だったんですね。
なぜ大村益次郎は指揮官を数多く作れたのか?
この時に私も不思議に思ったのは、この短期間で自ら考え自ら動くだけじゃなくて、なおかつ10人くらいの指揮もとらないといけない、そういう小隊長をどうやって作ったんだろう?!ってことです。
長州軍5千人ですから、10人に1人の指揮官が必要だとすれば、5百人も指揮官を作る必要があるわけですから。
これはあくまで私の予想ですが、もともと大村益次郎さんは医者でしたが、その医学をどこで学んだのかっていうと、大阪の適塾っていう所なんですよ。
ここは福沢諭吉先生も行った塾なんですが、そこの文化が考え方としては「半学半教」というもので、みんなで学びながらみんなで教え合って切磋琢磨していくっていう考え方なんです。
ですから、その時も、もしかしたら志の高い人たちで、半学半教みたいな考え方で、それぞれみんなで学んでみんなで教えて合って、そうした西洋式の戦術を特訓して、そしてあれだけの強い軍隊を作り上げていけたんじゃないかと。
結果的には第二次長州征伐の後に、世の中は完全に倒幕へと流れは変わっていきまして、そういうことをやり遂げたのが大村益次郎さんです。
大村益次郎さんはそのあと、45歳くらいで殺されちゃうみたいな感じなんですけれども、本当に死ぬまで勉強、勉強、勉強を続けました。
勉強して勉強して実戦に向けて戦い方を全部教え込んで、 それがあって、実戦の初陣から軍神となったという人なんですね。
こういう人の考え方って、経験や資源の乏しい中小零細の社長さんにも、凄く学びがあるんじゃないかと思って紹介致しました。