「オランダ東インド会社」は、世界初の事業継続を目的として設立された”株式会社”である。オランダ東インド会社の株式会社としての歴史を振り返ると、そこには「私心なき自由」、そして「ペイラントの自由」という2つの自由で隆盛と没落が決まった経緯がわかる。私達もどの自由を選ぶかで企業としての行く末が変わることをオランダ東インド会社は教える。
オランダ東インド会社は世界初の株式会社
「オランダ東インド会社」は、世界初の事業継続を目的として設立された”株式会社”である。
ちなみに、わずかながらオランダよりも設立の早かった「イギリス東インド会社」は、初期の時点では1航海単位毎に資本家がスポット形式の出資を行う形態をとっており、株式会社ではない。
オランダ東インド会社は会社といっても香辛料貿易など商業活動のみでなく、条約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権など喜望峰以東における諸種の特権を与えられた勅許会社でもあるが、現在に至り存続する株式会社へその性格は一部受け継がれている。
世界経済の先行きが不透明なこの夏、我々はもう一度「オランダ東インド会社」の歴史を通して原点に立ち返り、過去の教訓から学ぶことがあるのではないだろうか。
オランダ東インド会社の繁栄と衰退の歴史
1. 世界初の株式会社はこうして生まれた
1568年、ネーデルラント(現在のオランダ)の人々は、スペインからの独立を賭けて、後の「八十年戦争」と言われる戦いに挑む。
いっぽう、戦争の傍らでは、”技術力”と”貿易”によって財を成したブルジョアジー(資本家階級の)商人たちが、アジア産の香辛料がもたらす莫大な富のために次々と会社を設立し、利権を争う状況になっていた。※
欧州における当時の「インド」とは、今日の「アジア」のことである。
オランダの連邦議会は、”未開拓の地インド”の利権に目をつけるようになり、1602年に商人たちが作った会社を一つにまとめて「オランダ東インド会社」を設立する。
オランダ東インド会社が、イギリスやフランスの東インド会社と最も異なっていた点は、キリスト教の布教によるアジアの植民地化を目的にしてはおらず、貿易で得られる利潤にしか興味のない事であった。
そして、そこに出資する者の多くは商人たちであり、出資総額は650万グルテンにのぼり、イギリス東インド会社の10倍以上の資金だったともいわれている。
また、国の「お墨付き」であるオランダ東インド会社は、貿易の独占権だけではなく、戦争や貨幣を鋳造する国家権限すら与えられていた。
これが世界初の「株式会社」の姿カタチであった。
権限の違いこそあれど、現代でいえば『官民一体となって』が多少なりとも近いのかもしれない。
2. 利権の自由を掲げたブルジョアジーたち
やがて1648年、オランダはイギリスの強力な支援を背景に、スペインと講和を結び、80年間におよんだ戦争の終わりを迎える。
しかし戦争の最中にオランダ商人たちは、なんと敵国であるはずのスペインに大量の武器を売りさばき大儲けし、イギリス人を呆れさせていた。
彼らの一人、ペイラントは裁判にかけられた際、「貿易は万人にとって自由でなければならず、戦争によって妨げられてはならない」と主張し、その結果無罪になる。
この主張と考え方が「ペイラントの自由」として、現代に広く知られている。
3. 「ペイラントの自由」がもたらしたもの
その後の情勢変化にともない、オランダとかつての盟友国イギリスとの関係は悪化し、ついには戦争が始まる。
だが、すでに連邦議会とオランダ東インド会社は、「ペイラントの自由」を掲げて私利私欲を追求する人々によって支配されていた。
イギリスとの戦争にあたり、政治家たちは利権と保身を基準に国家の安全を判断し、敵国に自国の船が拿捕されているにもかかわらず、商人たちはイギリスに軍艦用の資材を売りさばいていたという。
また、オランダ東インド会社で働く社員たちも、私貿易による私財のために働くようになっていた。
そして、すでに時代のニーズはアジアの香辛料からインド綿や茶に移り変わっており、さらにはフランス革命の影響によって連邦議会は崩壊する。
かつての経済大国であり、技術大国でもあったオランダは急速に力を失い衰退し、1798年 オランダ東インド会社はおよそ二百年のその幕を閉じる。
発展と衰退はいつも2つの自由の間で起きる
自由には2つの種類があるという。
ひとつは「私心なき自由」、そして「ペイラントの自由」である。
ネーデルラントの人々による「私心なき自由」がオランダという国を築いた一方で、「ペイラントの自由」もまた国家を衰退に導いた。
「オランダ東インド会社」は、解散から200年以上経った今日もなお、歴史を語り続けている。
参照元
※ オランダ東インド会社 (講談社学術文庫)