徳川家康の七光り…凡庸なる評価の徳川秀忠
徳川秀忠に対して、あなたはどんなイメージを抱いてますか?
関ヶ原の戦いに遅参したお坊ちゃん、家康の七光り、恐妻家…一般的に江戸幕府二代将軍秀忠の評価はあまり芳しくないものばかりです。
しかし、凡庸なるものと評された秀忠の代以降、江戸幕府の権威が急速に高まっていったのは紛れもない事実。彼は有能だったのです。
近年では、秀忠が二代目将軍として如何に有能だったかを明かす資料も発見されており、その評価に修正が加えられています。
時は現代、秀忠と同じように、あまりにも偉大な父を持った二代目社長は、父と能力を比較され、時には「甘やかされて育ったお坊ちゃま」「父親がいなかったら後継者になれなかった人間」と陰口を叩かれるなど、厳しい評価にさらされます。
以下、徳川秀忠流二代目の流儀をご紹介しましょう。
現代の二代目に通ずる徳川秀忠流二代目の流儀
1)父の治世中は父を立てる
秀忠が2代目征夷大将軍の座についたのは1605年(慶長10年)のこと。
家康はまだ健在で、駿河に隠居したもののの、幕府の実権を死ぬまで握り続けました。
秀忠はそのことに苦虫を潰すのではなく、家康の生きている間は敢えて引いて、父親をひたすら立て続けます。
大道寺友山著「駿河土産」の中で秀忠はこう言ったと伝えられています。
「月が2つあったのでは天下が治まらない。月を2つにするのも1つにするのも心次第である。」
1615年に父である家康が死ぬまで、秀忠はあくまで将軍として現場の実務に徹し続けました。
2)父親の政策のうち優れたものはそのまま踏襲し、更に強化する
秀忠は家康が行った政策のうち、優れたものはそのまま踏襲し、更に強化しました。
その1つが貿易政策です。
家康は外国との貿易による収入を江戸幕府に集中させるため、西国大名に朱印状を与えて貿易を許可させ、収入の一部を幕府に献上させていました。
秀忠は貿易による収入が莫大であるのを実務を通じて知っており、貿易の実権を更に幕府へ一極集中化させました。
日本国内の貿易船入出港を長崎県の平戸一港に限定し、幕府による貿易統制を実施したのです。
後に貿易港は平戸から長崎の出島に移り、鎖国制度が制定されますが、その原型を作ったのは秀忠です。
変なライバル意識を持たず、父親の政策のうち良いものを客観的に見分け、強化することに成功した秀忠。優秀以外の何者でもありません。
3)父親の政策のうち時代にそぐわぬものは迷わず廃止する
家康の時代における政治の意思決定は、近習政治によって行われました。
すなわち、徳川四天王(酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政)らと、家康だけで多くの政策は決定されていたのです。
しかし、秀忠は近習政治がカリスマである家康だからこそ成り立つものであると考え、家康の死後に近習政治を廃止します。
代わりに秀忠は、合議制によるまつりごとの組み立てを図ります。
家老や役人を中心とする合議によって政務を処理し、最終的に御前会議で意思決定する合議制は、いわば仕組みで回す政治です。
これに逆らい既得権益を守ろうとした古株、たとえば家康に絶大な信頼を得ていた本多正純らは失脚させられました。
合議制は後の老中制度の原型であり、260有余年続く江戸幕府を根幹から支えました。
4)知恵者にへりくだって学び、部下に気さくに近づく
秀忠は自分自身でも、自分がカリスマではなく、凡庸なるもの、人の子であると認識していました。
更に周囲は、秀忠がカリスマ家康の息子、跡取りであるゆえに、出世を目論んでおべっかを使うばかり。本音でぶつかってくれない。
そこで秀忠は、自らに本気で教え諭し、時には厳しい言葉をかけてくれる知恵者を近くにおきます。
たとえば秀忠は、築城の名手である丹羽長重、勇猛果敢な立花宗茂、更には伊達政宗や細川忠興などを、お噺衆として毎日のように自らの下へ呼び寄せ、意見を聞いていたことが『徳川実紀』に記載されています。
また、将軍自ら各藩諸侯の武家屋敷を訪問する「御成(おなり)」という行事を、歴代将軍で最も実行したのも秀忠でした。自ら部下たる諸侯の屋敷を訪問することで、“気さくな二代目”として親交を深める方針を取ったのです。
知恵者にへりくだって学び、部下に気さくに近づく。秀忠の「凡庸なるもの」というより、「立場にこだわらず謙遜でチャーミング」な一面を垣間見ることができるのではないでしょうか。
自分らしいあり方で会社を回す二代目に秀忠のあり方はエールを与える
秀忠はカリスマではなかったかもしれません。関ヶ原の戦いでの遅参のように一歩間違えると致命的なミスを犯したのも事実です。
しかし、彼は彼らしいやり方で、その人生終盤に有能な政治家として次々と結果を作ります。
武家諸法度や、禁中並公家諸法度など、幕府の権威を絶頂なるものとする制度は、秀忠の代に作られたものです。
加藤家、福島家など、50万石格の大名であっても、豊臣家と何らかのつながりがある家は、秀忠の治世中に容赦なくお取り潰しとしました。
諸藩筆頭、120万石の加賀藩、前田家に謀反の嫌疑をかけ、当主の前田利常をかしずかせたのも秀忠でした。
秀忠が築き上げた幕府の権力と財政基盤を元に、徳川家光は「生まれながらの将軍」として、江戸幕府の黄金時代を作り上げていきます。
- 父の治世中は父を立てる
- 父親の政策の優れたものはそのまま踏襲し、更に強化する
- 父親の政策のうち時代にそぐわぬものは迷わず廃止する
- 知恵者にへりくだって学び、部下に気さくに近づく
いつの時代も二代目三代目社長は、内部外部問わず多くの人間に先代、創業者と比較されながら経営に就かねばなりません。
自分らしいあり方で会社を回すうえで、秀忠のあり方や行動を振り返ると、多くのヒントが見つかるのではないでしょうか?
画像:ウィキペディア