今日本で一番熱い男といえば、松岡修造さんですが、その曾祖父さんもなかなか熱い男で、名を小林一三さんと言います。阪急電鉄や東宝HD、宝塚歌劇団の創業はもちろん、今でも活用されている、住宅の月賦販売やターミナルデパート、それにビジネスホテルは、全て一三がそのビジネスモデルを発案したものと言われています。常に大衆の視点から喜ばれるビジネスモデルを作った一三に迫ります。
松岡修造の曾祖父さんはやはりぶっ飛んでいた
海外に出国すると日本国内の気温が下がると言われたり、熱すぎる語録を集めたカレンダーが大ヒットを記録している男といえば、松岡修造さんです。
修造語録の一つに「お醤油ベースのお吸い物にあんこ。非常識の中に常識あり。」というぶっ飛んだものがありますが、彼の曾祖父さん(ひいおじいさん)はまさにそれを体現した人と言って過言ではありません。
多くの方が御存知の通り、松岡修造さんの家系は阪急電鉄や東宝HD、宝塚歌劇団の創業家であり、曾祖父さんの小林一三(こばやしいちぞう:以下、一三)は、その創始者です。
一三が考案したビジネスモデルの多くは、当時の業界人にとっては「お醤油ベースのお吸い物にあんこ」を入れたような非常識なものでした。
しかし、彼が考案して100年経った今でも、それらの多くは私達が利用しているものばかりです。代表的なものを3つ、本日はご紹介したいと思います。
小林一三が考案した100年続くビジネスモデル
1)住宅の月賦販売
三井銀行の行員だった一三は、34歳の時に上司に誘われて共同企画した新証券会社の設立に頓挫。無職になります。
その当時(1910年頃)に見つけた仕事が、潰れそうになり株式の引受け手もいない「箕面有馬電気軌道」というオンボロ電鉄会社の再生事業でした。
沿線が短すぎたため利便性が悪かったこの鉄道について、一三は借金を重ねた上で大阪郊外へ沿線を拡張します。
拡張した沿線を利用してもらうために一三が考えたことは、沿線近くに家を作って多くの人に住んでもらうこと。
当時は「人がいるところに線路を作る」という発想が鉄道会社の主流であったため、一三の発想は非常識でした。
しかし、一三は沿線沿いに住宅地を開発し、今でも主流の「住宅の月賦販売」を始めます。
毎月一定の金額を支払えば、サラリーマンでも自分の家を持てる仕組みは大ヒットし、多くの人が沿線に住み始め、今でも他の電鉄会社が踏襲しているドミナント戦略や、マンション月賦販売の礎となります。
2)ターミナルデパートの運営
今やデパートの店舗形態として主流となっている、ターミナルデパート(駅と直結した百貨店)は、一三が発案したものです。
それまで国内外問わず、百貨店は「餅は餅屋が売るものであり、ノウハウもない鉄道会社が百貨店を運営するのは非常識」と考えられていました。
しかし一三は鉄道利用客が増え続けることを見越し、「便利な場所にあれば、暖簾(ブランド)が無くとも人は必ず来る」と主張し、阪急百貨店をオープンさせます。
折しも阪急百貨店がオープンしたのは、1929年(昭和4年)ですが、この年は「暗黒の木曜日」に端を発する世界大恐慌が起こった年です。
不況であろうとなかろうと、電車はインフラで必ず利用しますから、一三は沿線を利用する人に徹底的にターゲットを絞った戦略を実施。
阪急百貨店は不況の中でも増床に増床を重ね、破竹の勢いで拡大していきます。
3)ビジネスホテルの運営
出張時に私達がいつもお世話になっているビジネスホテル、これも一三が発案したものです。
当時土地活用を相談しに来たのは、味の素2代目社長の鈴木忠治。彼に一三は、建ぺい率(敷地面積に対する建築面積の割合)めいいっぱいで作るホテルの運営を打診します。
こうして1938年(昭和13年)に出来たのが「新橋第一ホテル」でしたが、旧来のホテルは富裕層をメインターゲットとして運営されていたのに対して、第一ホテルはビジネスマンをターゲットとして作られました。
部屋に無駄な飾りをせず、当時はご法度とされた素人をホテルマンとして雇い、宴会会場は作らない。無駄なコストを使わない代わりに、冷暖房施設だけは快適なものとして、ビジネスマンが安価で泊まれるビジネスモデルを考案したのです。
建設当時の新橋第一ホテル
当時の東京は、1940年にオリンピックが開催されることが決定し、現在と同じで資材費や人件費が高騰していましたので、一三のアイデアは節約の視点があったからこそ、出てきたものと言って良いかもしれませんね。
結局オリンピックは、日中戦争の拡大により開催権を日本が放棄したことで実現しませんでしたが、この時に発案されたビジネスホテルは、2020年の東京オリンピックを間近に控え、現在でも次々と着工されています。
全て顧客となる大衆の視点から始まった仕組み
一三翁、ひ孫の修造さんに負けず劣らず熱い人ですよね。
一三が発案したビジネスモデルは、約100年が経過した今も、なぜこれほど人々に活用され続けているのでしょうか?
その理由は、彼が考えるビジネスモデルが、常に大衆の視点から見て「こうあったら良いな」というものを、実現するために考えられた仕組みで成り立つものだったからです。
一部の特権層だけが恩恵を受けるビジネスモデルを、彼は良しとしませんでした。
大恐慌や戦争が続く困難な時代の中で、「お醤油ベースのお吸い物にあんこ」の精神で駆け抜けた一三のあり方は、今も多くの経営者にとって手本となるものです。