関ヶ原の戦いにおいて西軍の総大将となった毛利家は、御家取り潰しこそ免れますが、120万石にも及ぶ大所領を削られ、周防・長門2ヶ国の30万石(約四分の一)へと所領を大幅に減封されました。徳川家康は毛利家を必死に取り潰そうとしますが、輝元は限られたリソースしか無い中で、起死回生の経済政策を断行し、この逆境をはねのけます。
関ヶ原の戦いでピンチに陥った敗戦の将・毛利輝元
大河ドラマ「真田丸」も、いよいよ「関ヶ原の戦い」に向けてストーリーが進展してまいりました。
関ヶ原の戦いでは、東軍の総大将が徳川家康、そして西軍の総大将が毛利輝元でした。
結果は皆さんよくご存知のように、寝返り工作を図った東軍が勝利し、西軍の諸大名は次々と仕置される結果に。
毛利家は御家取り潰しこそ免れますが、120万石にも及ぶ大所領を削られ、周防・長門2ヶ国の30万石(約四分の一)へと所領を大幅に減封され、山と海に囲まれた領地へと追いやられました。
更に家康は、関ヶ原の戦後処理を終えた後、幕藩体制の確率を進める上で、領国を収める能力のない大名を取り潰しに掛かり、毛利家も取り潰し対象として目を付けられます。
それもそのはず、毛利家は大・大名であったため、藩内に多数の家来を抱えていましたが、領国が減封された以上、彼等に食い扶持を与えることができません。
関ヶ原の戦いへの出費がかさんだこともあり、藩の財政はたちまち窮乏状態に陥ります。
元々家内では「東軍に付くべきだったのに」と不満を抱え、現状に耐えかねた家臣も多数おり、彼等は脱藩して他家に使えたり、浪人になりやすい状態でした。
これらの話が家康の耳に入れば、御家取り潰しの理由としては十分です。
しかし、ここで頭をひねった毛利輝元は、起死回生の経済政策を打ち出します。
毛利輝元が打ち出した起死回生を狙う3つの経済政策
経済政策1:平穏の内にリストラを成功させる
輝元はまず、農業に目をつけます。小さくなった領地について新たに検知を行い、身分の低い家臣たちに帰農することを奨励します。
とはいえ、足軽身分と言えど武士から農民になることは、彼等のプライドにも触る部分が生じます。
輝元は彼等に、毛利家の家紋と酷似した家紋をつけることを許し、彼等を毛利家がこれからも守り続けることを示します。
これによって輝元は、平穏の内に大幅なリストラを実現させました。
経済政策2:限られたリソースで収入源を効率的に広げる
毛利家の元に残された僅かな領土において、輝元は当時一番の収入源となった新田開発を実行します。
先述の通り、残された領地は山と海に囲まれているため、畑作には向かないところ。
しかし輝元は、山では棚田を、海沿いでは干拓事業を行うことで、環境に合わせた新田開発を行い、限られたリソースで、収入源を効率的に広げました。
経済政策3:付加価値の高い商品を生産し流通も支配する
また、農作物が作りにくい山では、和紙の原料となる「楮(こうぞ)」を積極的に生産奨励し、これを独占的に買い上げることで、山間部に移り住んだ家来達の収入源を確保します。
この原料で作られた和紙は、後に徳地和紙として、関西一の和紙と高い値段で取引されるようになり、毛利家に安定した収入をもたらします。
更に、戦国時代に毛利家へ莫大な収入をもたらした、石見銀山を毛利家は取り上げられますが、輝元は採掘技術を持った家来達を用いて、銅山開発に乗り出します。
当時、良質な貨幣鋳造が喫緊の課題となっていたため、銅は高い値段で取引されており、銅山は毛利家に大きな収入をもたらします。
更に輝元は、下関港を利用した海運物流を切り開くことにより、生産だけではなく、流通過程からも収益を得ることに成功します。
限られたリソースで知恵を絞ることにより長州藩が得た思わぬ副産物
領地を召し上げられてから僅か7年程度で、毛利家の実質石高は30万石程度から、50万石を超えるまでに回復し、家康も毛利家を取り潰す言い訳を結局作ることができませんでした。
毛利家の表面石高は、幕末に37万石でしたが、実質的には戦国時代と同じ100万石へ回復していたと考えられています。
限られた領地で付加価値の高い商品を作る概念は、後の藩主達にも受け継がれ、長州藩は海を利用した塩田開発などで、莫大な利益をあげるようになっていたからです。
更に、輝元のリストラは思わぬ副産物を生み出します。
藩内には武家出身の農民・商人が多数いたため、子供に学問を学ばせる風習が代々伝わり、寺子屋や私塾をはじめとした学校が1,000以上もありました。
身分の区別なく多様な人材が学問に勤しんだことが、後の倒幕にあたり多くの人材を産み出したのは言うまでもありません。
逆境に陥り限られたリソースしか無い中、やがて日本の表舞台へと躍り出た長州藩の活力は、敗戦の将・輝元が苦汁をなめる中で築いた礎により生まれたのです。