幕末期の諸藩において、多様な出自から有能な人材を見出した藩は長州藩である。身分が市農工商で明確に区別されていた江戸時代に、ダイバーシティ型組織を実践していた点は驚きと言えよう。なぜ長州藩からは、武士の家系以外から多くの優れた人材が登場したのか?その理由を関ヶ原の戦い後に起きたリストラ劇に遡って検証する。教育の与える影響は非常に大きいと言えるだろう。
農民や医者が武士として活躍した幕末の長州藩
吉田松陰や高杉晋作をはじめとして、幕末の長州藩(現在の山口県:以下長州)には、数多くの傑出した人材が現れた。
先に挙げた人物が武士の家系から排出された者である一方、武士以外の出自から優れた人材が輩出されたことも特筆すべき事実である。
大村益次郎や久坂玄瑞は医者の家系であったし、伊藤博文や松本鼎(かなえ)は農民の出身、山県有朋は中間(武家への奉公人・家事手伝い)の家系を出自としていた。
これだけ多様な出自から有能な人材を見出した藩は長州だけであり、身分が市農工商で明確に分かれた江戸時代に、ダイバーシティ型組織の運営を実践していた点は驚きと言えよう。
なぜこのようなことが長州藩に出来たのか?その理由は、幕末から遡ること約300年前に起きた、あるリストラ劇に見出せる。
長州藩で様々な身分の人が幕末に活躍した理由
毛利家は、毛利元就の代に中国地方の覇者となり、その後も豊臣政権で領土を安堵され、120万石を拝する大大名であった。
しかし、元就の孫である輝元が統治している時代に、天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」が行われた。
輝元は積極的な戦いこそ見せなかったものの、自ら西軍の総大将に就任した経緯もあり、徳川家康による糾弾を受けた上で、36万石の知行しか与えられないこととなる。
ここで問題となるのが、120万石を領有していた時代に召し抱えていた家来たちである。
同じ問題にぶつかった上杉家(120万石→30万石)は、家来たちの雇用を維持したことで、幕末まで財政のやりくりに四苦八苦した。
ところが長州藩では敗戦と減封が決まると、3万人いた家来をリストラし、あっさり1万人以下へ削減したのである。
このリストラが、幕末の長州藩で武士以外から、多くの優れた人材が生まれる理由となる。
リストラされた武士達が子供たちに行ったこと
リストラされた家来たちは、他家で仕えるものも現れたが、多くは帰農したり他の職業へ就くなど、自力で江戸時代に血筋を脈々と繋いでいった。
彼らが、同じ時代の農家や職人と決定的に違ったことが一つある。それは文字が完璧に読めることだった。
従って彼らは、武士から農家や職人に身分が変わっても、自らが文字を教えてもらったように、子供達へ一定以上の教育を受けさせた。
事実、幕末期の長州には私塾が106校あり、寺子屋も1304校存在しているが、これは他の藩と比較して圧倒的に多い数字だという。
これらの要因により、長州には身分を問わず、全藩をあげた人材登用システムの素地が出来上がっており、優れた人材を効率的に輩出できたのである。
家族であろうと会社であろうと、教育を施すことが、優れた人材を輩出するため如何に重要か、長州藩の事例を見ると理解できるだろう。
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