こんにちは!会計コンサルタントのキミアキです。
この記事では、風呂なし木造3万円のアパートに住んで底辺にいた私がどうやって20代でのし上がったかについて紹介したいと思います。
私の出身は長崎県の佐世保市という日本の西の端です。
私の両親は東京という街に負けて、東京の目黒から佐世保に移り住んでおり、私も18才までは佐世保に住んでいました。
そこから東京に出てくるわけですが、もちろん東京に出てくるときは人脈も財産もなく、本当に持たざるものでした…
風呂なし木造3万円のアパートから脱却できたランチェスターの弱者の戦略
私が木造3万円のアパートから脱却できたのは「ランチェスターの弱者の戦略」というのを取ったからです。
ランチェスターの弱者の戦略とは
そして絞り込んだその小さな小さな世界で一番になっていくこと、簡単にいうと「勝てる場所で勝つ」ことです。
結果として私はこのランチェスターの弱者の戦略を偶然選んだに過ぎないのです。
高校受験
当時は負け犬の家庭で、高校を受ける時にお金の面で私立のスベリ止めを受験することもできませんでした。
当時からコンピューターがやりたいと思っており、それが実現できる公立高校を受験することになります。
当時コンピューターが一番勉強できる佐世保商業高校情報処理科は競争率が2倍で、偏差値はだいたい50くらいでした。
2ランクくらい落として受験したので、全然苦労はしませんでしたが。
佐世保商業で最初のランチェスターの弱者の戦略
2ランク落として入っているので、入学時はトップで学級委員長でした。
それから商業高校なので、1000人の生徒のうち男子が200人いるかいないかだったので、男女比が4対1になり自分みたいな男でも女子生徒から結構チヤホヤされました。
例えばソフトボール大会などがあったときに、私は運動神経が悪いので、ポジションは一番下手な人がやるライトでした。
ところが私は人に助けてもらえる人生だったので、ちょっと難しいところにあがったフライは、小学、中学、高校とずっと一緒の友だちだったセンターの寺崎くん(運動神経抜群)に捕ってもらいました。
そして、誰でも捕れる簡単なボールを自分が捕ると女子生徒から歓声が上がったものです。
たいした努力をしなくても勝てる場所で誰よりも努力する
これと同じようなことを林修先生も言っています。
林修先生も「たいした努力をしなくても勝てる場所で誰よりも努力しなさい。」と言っています。
林修先生は有名予備校の東進ハイスクールに27歳で数学講師として採用されますが、たいした努力をしなくても勝てる場所は数学ではなかったということで現代文に移ったそうです。
そして今では予備校出身としては最強のタレントと言われるぐらい素晴らしい先生になっています。
私の商業高校と同じですね。
男女比があれだけ違えば、自分みたいな男でももてるわけです。
上京してからのランチェスターの弱者の戦略
東京に出てきてからも偶然にまた勝ちを見られるのですが、高校時代に簿記と出会って、それからコンピューターで週20時間COBOLというプログラムを組んでいました。
当時は金融機関は全てCOBOLだったので需要も多く、私は簿記の方で生きていって偶然そこでも勝ててしまうことになります。
専門学校受験の戦術ミス
私は高校時代に簿記検定の一番上の1級を取っており、失礼なのですが、専門学校なら特待生試験に余裕で受かると思っていました。
しかし、ここで戦術ミスを犯しててしまいました…
国語と数学を選べばなんの問題もなかったのに、私は国語と簿記で受験してしまったのです。
この専門学校は簿記の甲子園をやっている学校なので、簿記レベルが日本一で特待生試験の簿記がすごく難しかったのです。
ギリギリ特待生に引っ掛かりましたが、戦術のミスをしてしまいました。
簿記4冠
当時は簿記1級をとっていれば、ぜいたくを言わなければ座っていても就職ができる時代でした。
それからもうひとつ全国経理学校の検定試験の上級も偶然取れました。さらに専門学校は2年制の学校でしたが、1年半で税理士簿記論にも受かりました。
当時19歳で簿記の4冠になって、これがあとで武器として生きてくるのは少数派になったからです。
税理士事務所から簿記講師に
そのあと私は銀座の税理士事務所で働きますが、当時は給与が12万円でした。
それに悩んで、自分が尊敬していた簿記学校の友達に相談したところ、私に対して「簿記だけは絶対に負けないのだから簿記講座に潜り込めばお前よりできるやつはいない」と進められ簿記の講師になります。
簿記講師になった時は、こんなにもらっていいのかというほどの給料でした。
副業のプログラミングでも成功
そのほかに、コンピューターを使った仕事をして収入がだいたい月に50万円くらいはありました。
当時表計算ソフトはすごい革命だったので、副業として表計算ソフトで日本で一番早く相続税が計算できるサービスを作り、保険の外交員さん向けに商売を始めました。
会計事務所の設立と居酒屋の買収
そして次は奥さんと一緒にあおば会計事務所を始め、それから居酒屋を買収します。
居酒屋ではファーストドリンクを2分半以内に絶対出すというマクドナルドのような仕組みにしました。
あおば会計ではその日のうちに株式会社を設立するというサービスを始めます。
当時は、銀行の保管証明という仕組みがあって、手続きにどんなに早くても10日かかっていました。
しかしあおば会計で打ち出したのは、株式会社をその日のうちに作ってあげますというサービスです。
とにかく早いというような、人にわかりやすいもので差をつけて、少数派になってのし上がっていったわけです。
もちろん努力は人に言えないぐらいしました。
実務書は本当につまらないのですが、人が遊んでいる間もずっと勉強し”こんなつまらないものを勉強するのは自分しかいない”と信じて勉強してきました。
実力を認めてもらうこと
人に実力を認めてもらって、実力を買ってもらうことです。
これが一番の底辺からののし上がりだと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました!