東芝の3,000億円とも見積もられる経営陣からの組織的な不正会計指示には、過去三代の社長が関わったと言われています。部下にチャレンジさせるまではいいものの、その後の数字(結果)に責任を追わない姿は、鳥羽伏見の戦いにおける徳川慶喜を彷彿させます。部下に課したチャレンジが達成できなかった時にこそ、経営者の出番はあります。
東芝の不正会計損失は3,000億に及ぶ公算も
東芝の田中久雄社長が21日(月)に東京都内で記者会見し、同日付で自らを含む経営陣8人の辞任を発表しました。
3,000億円とも見積もられる組織的な不正会計指示は、第三者委員会の発表によると過去三代の社長が関与した証拠が判明しているといいます。
西田厚聡氏、佐々木則夫氏、田中久雄氏ら歴代3社長は「チャレンジ」という言葉で、部下たちに業績改善の目標設定を要求し、現場では設定された目標が厳しい圧力の元で達成必須とされていました。
さて、ここまでの風景は多くの会社で見られるものです。
設定された目標が現場の社員たちにとって到底不可能と思われるものであっても、経営者は企業の成長を促すために数字をあげるよう指示する必要があるからです。
東芝元経営陣と重なる将軍・徳川慶喜の対応
しかし東芝の経営陣達は、ここで一番やってはいけないことを行っていました。
「うまく行かなかった時に、トラブル処理を全て部下に負わせ、自分が即座に責任をかぶろうとしなかったこと」です。
なぜこれが致命的なやってはいけないことなのでしょうか?
トラブル処理とその責任を部下に負わせることで経営者は、今までの味方(社内の人間)を全て敵に回してしまうからです。
事実、東芝の経営陣達は部下たちに利益の水増しを認め、部下が主体となって悪事に手を染めることを勧めました。
悪事に手を染めさせられるということは、部下の視点から見れば経営者に逃げられたと受け止められます。
部下は当然、経営者に対する信頼を失うため、この行為は経営者が部下を敵に回しているのと同じことです。
同じように要求したノルマを部下が達成できない時に、責任から逃げて最終的に失脚した人物の事例は歴史上に山ほどあります。
その最たる例が、鳥羽伏見の戦いに挑んだ徳川慶喜(1837-1913:徳川幕府第15代将軍)の行動です。
慶喜は英名かつ実行力に優れた人物であり、その立ち振舞いは多くの家来たちに「権現さま(徳川家康)の再来」と称されるほど将軍としての威厳を保ったものでした。
慶喜は実際に時代の趨勢を読む天才であり、これまでの徳川家が全ての権限を持った幕府体制を維持するのが難しいと見るや、大政奉還(今でいう国の政治・経済決済権の返還)を実行します。
徳川家を中心とした諸国藩主による、新たな合議制の日本国家を慶喜は作ろうとしましたが、長州藩と薩摩藩を中心とした新政府樹立を目論む勢力に理解されることはなく、ついに王政復古(徳川家はただの諸藩となり領地を縮小させられる声明)を発せられ、ここに始まったのが戊辰戦争です。
徳川幕府は薩長連合との初戦を京都の鳥羽伏見で迎えました。いわゆる「鳥羽伏見の戦い」です。
この戦いでの勝利は徳川慶喜にとって、部下に与えた「チャレンジ」と言えるでしょう。
しかし慶喜は戦いの中で「錦の御旗」を薩長連合が掲げることに成功したことで、国家の逆賊になるという最大のピンチを迎え形勢は不利になります。
東芝でいうところの、チャレンジ未達と言えるでしょう。
さて、ここで慶喜はどう行動したでしょうか?
彼がリーダーとしてとった行動、それは現場に残る部下たちに「1000兵が1兵になったとしても逃げずに戦え」と一言だけ命令を下し、大阪港から自分の腹心達(親藩の大名)や愛妾を連れて江戸(東京)へ逃げ帰るというものでした。
その後幕府勢は総崩れとなり、味方だったはずの諸藩による壮絶な寝返りが生じます。残された東北地方の親藩による戊辰戦争の戦場は悲惨を極めるものとなってしまいました。
結果が出ない時こそ経営者が正面に出るべし
東芝の経営者が「チャレンジ」という言葉を掲げて、部下に数字を求めたこと自体は企業である以上理解できる行為です。
しかしそれが達成できなかった時にこそ、彼ら経営者(リーダー)の出番があったはずです。
その姿は戦に負けそうな時に自らが権限を掌握し、責任の矢面に立たなかった慶喜と同じものです。
どれだけ自分の名誉が傷つき、バッシングを受けたとしても、2008年の時点で全ての責任を経営者が取れば、事態はこれほど大きくならなかったはずです。
東芝に残された現場の部下たちは今後混迷を極める社内で、大きな負の財産を背負わされます。
経営者が部下に対してどうあるべきか、数字(結果)に対してどう向き合い対応すべきかを、東芝と徳川慶喜の事例は反面教師として教えてくれます。