あなたのプロ・アマ境界線はどこにありますか?
人によってプロとアマの違いはハッキリ決まっていません。
たとえば、ブロガーのイケダハヤトさんは、この違いを「生計が立てられるかどうかで分けるべきだ」と主張されています。
また、ネットを調べてみると、プロとアマチュアの境界線について、このような意見が展開されていました。
- 納期があるのがプロ、ないのがアマ
- アマは好き勝手やってもいいけど、求められる物を出すのがプロ
- 自分のためがアマ、人のためがプロ
色んな意見があって、どれも「確かに」と思わされますね。
一つ言えることは、プロとアマをわける境界線には、ハッキリとその定義が決まっていないことです。
「お金を稼ぐ人がプロ」は風化した古い概念
もっとも大勢を占めるのは、「お金を稼いでいる人はみんなプロなんだ」という主張ですが、私はこの概念はとっくに終わっていると思っています。
これからの時代、今までのように「本当はやりたくないけど、お金のためにやらざるを得ない」という概念は影を潜め、「付加価値の低い仕事」はどんどんAIに取って代わられる、と私は考えています。
特に日本はこれから人口減少が続いていくことが確定的ですから、残された少ない人員で経済をまわしていかなければいけません。できるだけ高い生産性を維持し、利益率の高いビジネスで国力を維持する道を、国を挙げて模索している段階です。
そんな新時代において仕事の価値は、「その人にしか出来ない事」に変化していくと私は考えています。
そういう時代に足を踏み入れつつあるわけですから、「お金を稼いでいるのがプロ、趣味がアマ」って分け方は「嫌なことでもとにかく稼ぐのがえらい」という考えに裏打ちされた古い概念だと思うわけです。
「嫌な仕事もお金のために、プロとして粛々と取り組む」、というストイックな考え方には、どうしても昭和レトロさを感じてしまうのです。
もちろん、どんな仕事も楽しいことばかりではないのですが、「嫌なこともまるごと含めて、仕事は楽しいもの」と私は考えているんですよね。作業単位で言えば嫌なことや多少苦痛を感じることも、料理で言えばスパイスのようなものかなという認識です。
新時代にプロアマの境界線が生まれる場所は?
ちなみに、私はプロアマの差について、次のように考えています。
「自然体で楽しく取り組んでいることに、誰かがお金を払ってくれる活動がプロ。ただ楽しんでいるだけなのがアマ」
なんだか長くて分かりづらいですね(笑)。
「楽しくてたまらなくて、好き勝手やっているけど、誰かがその活動に喜んでお金を払ってくれる」というケースは幾らでもあります。私が本を書いたり、記事を書いたりすることで、アクセスや部数売上を伸びれば、メディアや出版社は喜んでくれます。
でも、私自身も、楽しく文章を書いてそれを読んで「いいですね!」と喜んでくれる人がいるのが楽しくて、「仕事」というより「趣味」という位置づけでやっています。
普通、趣味にお金を払ってくれる人はいないものですが、お金を払ってくれる会社があって、そこからビジネスが生まれて、自分のブランディングにもなるなんて「まるで夢みたいだ」と今でも思っています。
アマとして楽しく活動をしていたら、お金を出すよという会社や人が集まってきて、気がつけばプロになっていた、みたいな感じでしょうか。
ですから、これからの時代は、はじめからプロを目指した人しかプロになれない、という概念が無くなっていくはずです。
YouTuberもそうですよね。ヒカキンさんとかも、バイリンガールさんも好きにやってたら、お金を出したい人が集まってきた、という感じじゃないですか。プロというのは「狙ってなるもの」というより、ある日突然オファーが来て、アマからクラスアップするものだと思っています。
楽しんで没頭しているうちにいつしかプロになる
この価値観に照らし合わせて、コンビニでマニュアル通りに一生懸命働いている人を見ると、「この人はプロだ」と私は感じません。
でも、販売員さんが、「お子さんかわいいですね~何歳ですか?うちの子も~」みたいに世間話を振ってくれて、店員さん自身がとても楽しく接客をしている、そんな風景を見ると「この人はプロだな」と私は感じてしまいます。なぜならそうした人は心からお客さんと接客するのを楽しんでいて、そこにお金が払われているからです。
「アマとして楽しく活動していたら、いつの間にかお金を払いたい人が現れ、その瞬間、その人はアマからプロになる」、これが私のプロアマの捉え方です。
私も趣味として書き物を楽しんでいたつもりでしたが、気がつけばプロになっていました。今後もプロアマをあまり意識せず、好きに楽しく書いていきたいと思います。