室町時代から戦国時代にかけて、関東における事実上の最高学府であった足利学校では、春秋時代の中国の思想家であり、哲学者だった孔子の著述した『論語抄』の学習が重要視されていました。本稿では『論語抄』から、「学ぶ」ことと、「習う」ことの違いに触れながら、両者の重要性について考えてみたいと思います。
古来から足利学校でも重視された『論語抄』
先日、鴇田正春先生を囲む東洋史観勉強会の仲間と、足利学校を訪れる一泊旅行にでかけました。
足利学校は、下野国足利荘(現在の栃木県足利市)にあった、平安時代初期(もしくは鎌倉時代)に創設されたと伝えられる、中世の高等教育機関です。
室町時代から戦国時代にかけて、関東における事実上の最高学府であり、漢文などとともに、運命学も教えられていたとされています。
足利学校で『論語抄』を買ってきましたので、この中で役に立つ考えの一つとして、今日は「学ぶ」と「習う」の違いについてご紹介しようと思います。
『論語抄』が教える「学ぶ」と「習う」の違い
『論語抄』の中には、このような一節があります。
【原文】
子曰く、学びて時に之を習う、亦た説(よろこ)ばしからずや。
朋あり遠方より来る、亦た楽しからずや。
人知らずしていきどおらず、亦た君子ならずや。
【通釈】
孔子は言った。
学問をして、その学んだところを復習できる機会を逃がさずに、何回も何回も繰り返して復習すると、学んだところのものは自分の真の知識として完全に消化され、体得される。
このようにして、知識が豊かになれば、道を同じくする友達が、遠いところからまでもやってきて、学問について話し合うようになる。
これはまた、なんとたのしいことではないか。
しかし、いくら勉強しても、この自分を認めてくれない人が世間にはいるもの。
そうした人がいたとしても、うらまない。
それでこそ、学徳ともに優れた君子ではないか。
いかがですか?
この部分は結構有名で、よく引用されますね。
この一節で、私にとって興味深いのは、「学ぶ」と「習う」の意味の違いです。
国語辞典によれば、「学ぶ」には、「経験することによって知る。」「苦労して人間のすばらしさを学んだ」という意味があります。
一方、「習う」には、「経験を積んで、慣れる。」「習慣となる。」「慣れ親しむ。」という意味があるようです。
「学ぶ」では“知る”、「習う」では“なれる”。
この項目の差異だけを取って考えるなら、「学ぶ」は知識面での“修得”であり、「習う」は身体面での“習得”だとも受け取れそうですね。
ビジネスも「学ぶ」と「習う」の連続で磨かれる
つまり、「学ぶ」は知識・頭脳的なものであり、「習う」は技能・身体的なもの。
2つを引っくるめて、あらゆる経験を外部から取り入れる「学習」という言葉が成り立っている、と考えられるのではないでしょうか。
積極的に知識を取り入れ「学び」、それを実践することで「習う」、ビジネスもこの連続ですよね。
Photo credit: hiyang.on.flickr via Visualhunt / CC BY