世界を変えたいと思っているのに自分は変わらない人
ロシアの文豪、トルストイは、かく語りました。
すべての人は世界を変えたいと思っているが、自分を変えようとは思っていない。
多くの人はこう語ります。「私はこの社会を変えたいんだ!世界を変えたいのだ!」
あなたの周りでこのような主張をする人も大概、トルストイの言葉通り、自分を変えることをおざなりにし、周囲を変えることに躍起ではありませんか?
私が常々思っていること、それは「他人は変えられない」という現実です。
人の性格や感じ方、能力は固定値ですあり、これを変えることは誰にも出来ません。
同じ夕焼けを見て感動する人もいれば、「ほーん…どうでもいいわ」と思う人もいますし、花の美しさを愛でる人もいれば、花に美を感じない人もいます。
自分が幾ら夕焼けをキレイだと感じても、「夕焼けをキレイだと感じなさい」と押し付けたところで、同調を得られなくてもそれは無理からぬこと。
感受性という「固定値」を「変数」と勘違いし、必死に人を変えようとする行為はもちろん、同調してもらえないことに対して落胆することがあるなら、それはトルストイの言う「世界を変えたいのに自分を変えない人」そのものです。
そもそも、人が「他人に変わって欲しい。変えたい」と思う時には、その背後に必ず「自分のために」というエゴが存在します。
「(自分に都合がよいから)仕事をこう進めて欲しい」
「(自分が嫌だから)あのクセを直して欲しい」
という具合に、「自分がないがしろにされているので、お前が変化するべきである」と、根本的には相手に対する変化を要求しているわけです。
他人に変化を求めて良いのは公共性に不利益がもたらされる場合
しかし、他人を変えてもいい時があります。それは自分のためではなく、公共性に不利益が被らないようにルールが定められている時です。
たとえば、煙草のポイ捨てをする人に注意するのは、自分のためではなく公共のためにすることであり、この変化を求める行為は個人的事情に起因せず、公共に不利益を被る行為を静止する目的に起因します。
タバコがポイ捨てされれば、捨てられた吸い殻を犬が食べてしまうかもしれませんし、燃えカスが子供の顔に当たる可能性もあります。
更に、捨てられた吸い殻を回収するコストは?社会全体で払うことになります。
公共性に不利益が出る場合で、尚且つ煙草のポイ捨てが禁じられているケースでは静止する権利を持つことが出来ますから、止めてもいいと考えます。
タバコ嫌いのあなたの前で他人がタバコを吸い始めたら?
では、仮にあなたがタバコ嫌いだったと仮定して、一緒に喫茶店に入った相手が、目の前でタバコを吸い出した場合はどうするでしょうか?
あなたがタバコの煙を不快に感じるなら、「自分はタバコが苦手なので遠慮頂けると助かります」と意志を伝えるところまではやってもOKだと思うのです。
でも、「今すぐやめなさい」と主張することは、まさに他人を変えようとする行為ですから、今いる場所が喫煙OKである限りはかなわぬことです。
この場合、取るべき選択肢は3つです。
- 1.タバコの煙を我慢する(主体:自分)
- 2.相手がタバコを吸わない(主体:相手)
- 3.相手と会わない(主体:自分)
気をつけなければいけないのは、2のパターンを自分が相手に強制してしまうことです。
「私がタバコが苦手かどうかも確かめずに、勝手にタバコを吸い始めるなんて最低だ!」と怒り出すのはおかしなことです。
なぜなら、この主張は「自分のために相手を変えよう」というエゴであり、嫌煙ブームで相手をマウンティングする行為に他なりません。いくらタバコの煙が嫌いでも、喫煙者の持つ吸う権利を侵害しています。
自分にタバコを吸う習慣がないことを伝えたうえで、相手がタバコを吸うことが不快なら、「会わない」という3番目の選択肢を取れば良いのです。
間違っても相手にタバコをやめるように強制をしようとは思わないことです。
自分を救える存在は自分以外どこにもいない
人は自分の興味のあるものしか見えない、という特性を持っています。このことは心理学でも「カラーバス効果」として知られます。
たとえば私の場合、ニュースサイトへ行くと、「スポーツ」「芸能」といったキーワードではなく、「金融・経済」という文字がまっさきに飛び込んでくるのを感じます。
これは、私が資産の9割以上を投資に突っ込むくらいガッツリ投資をやっていて、自分の資産に影響を与える金融・経済情報に強い関心を抱いているからです。
他人からの言葉が与える効果も同じであり、誰かの言葉を受けて人が変われるのは、その人がその言葉を必要としている時だけに限ります。
「苦しい…人生を変えたい…」と思い悩み、苦しんでいる人に対して、「人生を変える格言」が心に刺さるのは、まさにその人が格言を必要としているからです。
もしかしたらその格言がきっかけで、その人は立ち上がる力を得られるかもしれません。
この場合、一見すると「自分の言葉で人は救われたのだ」と考えてしまいがちですが、厳密に言うとそうではなく「人生を変える格言」はあくまできっかけであり、救ったのは思い悩んでいる本人自身の意思によります。
サミュエル・スマイルズが自著『自助論』に「天は自ら助くる者を助く」という言葉があるように、人はいつも自分自身によって救われているのです。
つまり、「他人を救う」と考えて言葉を投げるのは誤りです。そうではなく、救うきっかけになる言葉を投げるのです。似たような表現に思えるかもしれませんが、実態はまるで違います。
「俺がお前の人生を救ってやる!」「俺がお前のこれからを良い方向に導くから心配するな」
こんなセリフを言われたら、誰だってじーんと来ます。でも、実際にはそんなことは不可能です。自分を救えるのは自分しかいません。
周囲や社会を変えたければまず、自分を変える以外に方法はありません。自らの変化によって相手が影響を受け、やがて変わっていくのです。
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