言われたことはありませんか?「お前、昔は、あーだったくせに」
今回お話をする内容は、『教養のない人は話を聞くときに、話の本質的な内容ではなく、誰が言ったかについてこだわる』です。
いきなりですが、皆さんは家族で何か揉め事やいざこざがあった時に、自分なりの正論を言った結果、過去の話をネタにフルボッコで言い返された経験はありませんか?
「いや、これはこうじゃないの?」というふうにあなたが言ったら、家族から「お前が言うな」と「お前、過去散々こんな心配させたくせに」「お前、昔は、あーだったくせに」「何お前なんかが偉そうに言ってるんだ」と言い返されて、ざっくり切られてるみたいな経験ありませんかね?
家族から自分の過去のことを引き合いに出されて、自分の言った主張の正当性を否定されたという経験です。
まぁ、残念な話なのですが、家族であれ友人であれ、教養のない人にはどうしても、話の主張内容ではなく、誰が言ったかで判断するバイアスがはたらくんですね。
誰が言ったとしても、主張そのものを純粋に見れば等しく正当性がある
こういう状況にあなたが出くわしたとすれば、多分「悔しいな」という気持ちになると思うんですよね。
でも、それは当然で、言ってること自体はもしかしたら本当に良いことを言ってるかもしれないのに、「お前が言ったからダメだ」って言うのってやっぱり理不尽ですよね。
そして、過去を引き合いに人の意見を評価するのって、本当に良くないことなんですよ。
少し極端な例ですけど、ガンジーが「人を殺すのは良くない」って言った時、やっぱりそれは「ガンジーが言うから重みがあるな」とかって感じるじゃないですか。
「やっぱりこの人が言うと違うな」みたいな。ほとんどの人はそう考えると思います。
一方で、これまた極端ですけれど、ヒトラーが戦争を終えてから、本当に反省したとして、「人を殺すのは本当に良くない!良くないんだ!」と言ったと仮定した場合、「いやいや、お前が言うなー!」というような気持ちにはなりますが、主張だけ見てみると内容はガンジーと一緒なんですよ。
ヒトラーもガンジーも共通して言った事が「人を殺すのは良くない」ですよね。その主張だけ取り上げると、その主張そのものには問題ないわけですよ。
どちらも主張だけを純粋に見れば、等しく正当性はちゃんとあるわけですよ。
これは本当に極端な例ですが、何が言いたいのかというと、その人の過去とか行動とかと、主張そのものは切り離して考えなきゃいけないっていうことです。
どんなに「お前が言うな」って思うような人が何かいいことを言ったとしても、その主張そのものには罪は無いですからね。
その人自身には、過去、そして今も何か問題があるかもしれませんけど、主張そのものには罪はありません。
教養のある人は他者の主張と内容にフォーカスする
身近なところに話を戻すと、昔は暴走族でバリバリやんちゃだった人が、今は本当に「あの頃、迷惑かけたな。だから、その分この地域に貢献しよう」と反省して、地域社会に一生懸命貢献しながら会社を経営していたとします。
それに対して、「あいつ、昔は暴走族でみんなに迷惑かけていたくせに、今は敏腕経営者として聖人君子気取ってるよな。言ってることに全然説得力なんか無い。てか、気に食わないんだよね。」とそっぽを向いていると、どうでしょうかね?
もしかすると、その経営者の話を聞いたうえで、自分にできることと掛け合わせて一緒に出来ることがあったら、そこから先に何か起きる可能性だってあるわけじゃないですか。
でも、教養のない人は、人の主張の正当性は全然見ないで、過去の言動だけで判断しちゃうからそうは行きません。
「あ、批判的思考を学べてないな」と「クリティカルシンキングが十分に発達してないんだな」と、そう思われてしまいます。
人の話を聞くときは、その人の行動や価値観や過去で判断するのではなく、人の話の主張・内容をしっかりと納得したほうが良いよね。というお話でした。