『進化論を否定する人たちVS進化論者』
はい、どうも皆さんこんにちは。脳科学教育コンサルタントのクロスです。
今回お話する内容は『進化論を否定する人たちVS進化論者』というテーマです。
この論争には既に色んな意見があって、侃々諤々(かんかんがくがく)と議論され尽くしているので、今のところどんな感じの話で落ち着いているのか?を紹介するお話です。
なので、私がどちらかを論破するというよりは、もうこんな話になっているよ、という紹介になるかなと思います。
まず、『進化論』って何か?という話から説明したほうがいいですかね。
これは皆さんご存知、ダーウィン博士の『進化論』に端を発する「あらゆる生物は進化して今にいたる」という話ですね。
「ネズミが猿に進化して、猿が人間に進化した」
かいつまんで説明すると、これが進化論のロジックです。
「恐竜の一部が鳥になった」とか、「魚が陸に上がって、それで色々変化していった」とか、話はどんどん派生していきます。
現在主流の意見としては、環境の変化に適応した結果により、生物に高度な機能が備わって行き、その最高形態と言えるのが人間であると。
環境に適応して、適者生存機能と、環境による選択圧・自然淘汰など色んな要因が絡まり、そして生き残ったのが今のこの地球に住んでる生き物であり、そのトップにいるのが人間だよねという理論です。
ところが、神(特にキリスト教の厳格な信者)を信じる人たち中心に、こういう意見があるんですよ。
「いや、そんな進化なんて、そんなもんじゃ説明つかんぐらい人間は非常に複雑でよく出来ている」
「人間なんて、目の構造一つとっても奇跡としか言いようがないぐらい非常に正確かつ精密にできていて、どう考えたって進化の偶然でこんなものが出来上がったなんて考えられない。」
「進化で偶然出来ると考え難いほど、ありえない機能を人間の脳は持っている。こんな神秘的で柔軟性の高い臓器が自然に出来るはずがない。誰かがデザインしたんだ。神様かもしれないし、宇宙人かもしれない。」
神様以外にも、進化論反対派には、いわゆるインテリジェントデザイン、ID説というのもあるわけです。
ID説って何かって言うと、高度な知性を持った宇宙人か何かが地球を作って、色んな生物をデザインして、人間もデザインしたっていう事をID説っていうんですよ。
神様が人間を作った説もID説の一部に含まれていると言って良いでしょう。
進化論の否定者がメインであげる2つの根拠
じゃあ、進化論を否定している人たちなのですが、なぜここまで進化論を否定するのか?
彼らには根拠が少なくとも二つあります。
1つ目が「まずこんな複雑な地上の生き物が、ただちょっと進化を色々繰り返して、失敗、トライ&エラーしたぐらいじゃ、こんな複雑な見事な生き物にならないでしょ」と。
確かに、中にはこれどういう進化を辿ったらこんな生き物になんねやろって、説明が難しいなと言うような生き物だってゼロではない。
確かにゼロではない。
だからこれは、有神論者からすれば進化論を否定する強力な材料の一つなんですね。
「ほら、やっぱり神様が作ったんじゃないのか」と。
もう一つ、「人間というこんな複雑な生物がデザイン出来る人というのがいたとしたら、それはもう神様としか言えないよね」って。
無から有が作り出されることなどありえないと。
「ここまで複雑な人間を作った人がいるとしたら、それは神であって、その複雑なものを作れる人は、もう神として認定してその人が色々何かやってくれたんちゃうの?」という主張です。
つまり、「人間は奇跡の産物であって、進化とか確率論では未だに説明がついてないし、あまりにも複雑で誰かがデザインしたとしか考えられないから、神様がいるんだ」という事ですよね。
進化?その当時は数十億分の一の奇形だった可能性も高い
じゃあ、『進化論』を割と信じている人たちからすると、どういう反論があるのかって言うと、例えば、翼を一つとってみましょう。
翼というのは、羽根が生えていて、空を飛べるような構造になっているわけですよね。
じゃあ、進化の段階を経て翼が生えたという事は、はじめは翼を持っていない生き物がいたわけですよ。
ヨチヨチと地面を歩いていた個体から、何かの拍子で奇形の翼を持った個体が生まれると。
その奇形の個体っていうのは、例えばちょっとだけ手が長かったとか、ちょっとだけ皮が余ってたとか、ちょっとだけなんか体毛がブワッと広がって、ちょっと翼的ななものになっていたとします。
つまり、今までのヨチヨチしていた個体と、何かこの奇形か何かで、ちょっと翼みたいなものが、ぴょこっと角程度に翼が生えている生き物が生まれたと。
この翼が生えた進化生物は、手足の長い個体のほうが、もしかしたらより多くの食べ物を手に入れていたのかもしれない。
飛ぶまではしなくとも、ちょっとした滑空なら出来ていたかもしれません。例えば、ムササビとかモモンガとかですよね。
彼らって皮をビーンって伸ばして、そしてスーッと降りるわけじゃないですか。
飛ぶ事は出来ないけれど、少なくても安全にスーッと遠いところまではいけるじゃないですか。
ちょっと皮が余っていて手も伸びて、そして生存競争に有利だったら、今までよちよち歩いていた丸っこい生き物よりも、ちょっと皮が余ってて手足の長い生き物のほうが生き残りやすいですよね。
じゃあ、更にもっと手が伸びて、更にもっと皮が余って、しかも体毛がたまたま更に伸びて、もっと空気に乗って、空気を掴んで飛べるというような個体が生まれるかもしれない。
すると、どっちのほうが生存競争でより生き残りやすいのかというと、バージョン0.1じゃなくてバージョン0.2の、翼みたいなのにより近づいた個体のほうがより生き残りやすいですよね。
これをひたすら繰り返すわけですよ。
中には、歪な翼っぽいやつもいたり、逆に長すぎて駄目だったとか、ちょっと退化しちゃったとか、色んな種類の翼が生えた生物がいて、何万通りも生まれては消えたと。恐竜でも翼竜みたいなのいたじゃないですか。
それが私達が物理的に想像しにくいくらいの、何万年もかけて翼の奇形を繰り返していったと。
たまたま偶然「奇形だった、奇形だった、奇形だった」という事をただ繰り返すわけですよ。
つまり、進化じゃなくて、元々奇形だったんですよね。
もともと、その何か遺伝的にうまくいっていない変な個体が、たまたま環境に適用していたという事を、延々と続けては死んでいった。
自然淘汰で死んでいった生物たちを礎に進化というか、たまたま奇形で、しかもその環境に適応していったやつが、次から次へと何万年もかけてより洗練されていくわけですよ。
それこそ億とか兆分の1ぐらいの可能性で、良い方向に生物は進化してきたという主張です。
確かに10年や20年じゃどう考えてもありえないような、奇跡としか思えないような事も、まだ正確には計算しつくされていないが、何兆分の一の確率でだったら生まれてくる可能性が高いとサイエンスの世界では計算しているわけです。
これだけ十分なサンプル数(過去の化石)や時間の経過を組み合わせると、たまたま奇形の一匹っていうのは出てくるわけですよ。
いやでも出てきちゃうわけですよ、一匹や二匹くらいは適者生存によって。
進化論の根源にあるのは「適者生存」の考え
例えば、目を例にあげましょうか。
目だったら例えば、目がない魚と、目が出来かかった魚、目がギョロッと発達した魚がいるじゃないですか。
目のない魚っていうのは全部音とか振動とか、あとは適当に泳いで、たまたま口の中に入ってくれた微生物を食って生きながらえるわけですよ。
逆に明るいか暗いかというのが、ギリギリわかる程度の、不思議な目のようなものが奇形で備わった個体の魚もいます。
目かどうかわからない、ただ皮膚が薄くなった、そして脳の一部にちょっと近い場所が目の機能を果たしているんだけれど、実は脳が明るいか暗いかっていうのを認識する、ギリッギリの仕組みを持った魚もいるわけです。
「ちょっと明るいような気がする」「ちょっと暗いような気がする」
ギョロッとしている魚、個体っていうのは、「あっ、このまま進んだらぶつかっちゃう。駄目だ駄目だ」と考えて、明るいほうに行こうとするじゃないですか。
そうやって、明るいほうに基本的に進むような個体っていうのはやっぱり、例えば明るいほうに行って、たまたまそこにいっぱい食べ物がいたら、そしたら生き残りやすいですよね。
そして、目のついていなかった魚っていうのは、結局なかなかメジャーな場所では生き残りにくくて、深海に潜っていくわけです。
でも、明るいか暗いかが分かる程度には、目がちょっと生まれた奇形の魚っていうのは、もう少し種類も多く生き残っていくと。
ここから更に、明るい・暗いだけじゃなくて、色のようなものも感じられるようになった。青と赤だったら何かわかる魚が生まれたと。
「明るいか暗いか、青と赤だったらギリギリわかるな」みたいな、この時点では奇形の目を持った魚が生まれたとします。
すると今度は赤いものを食べると「何か美味しいし、栄養がいっぱいだな」と。
逆に青いものを食べると「何かどこで死んじゃうな」っていう事をちょっとずつ進化というか、トライ&エラーで学ぶわけですよね。
赤いものを好むような個体のほうが生き残って、青いものを好む個体は死んでいくわけですよ。
なので、つまりこの時点でまた一つランクあがりますよね。
明るいか暗いかしかわからなかった個体と、青いものと赤いものがわかる個体だったら、青いものと赤いものがわかる個体のほうが生き残りやすい。
逆に別の場所で同じ奇形を持った魚が、今度は青いものを食ったほうが栄養満点で、赤いものを食べたほうが死ぬとか、そういう学習をすると、青いものをよく食う個体のほうが生き残るわけです。
住む海域とかによって、それぞれの奇形というか、進化というか、適者生存のあり方も変わります。
つまり、なんだかんだで色んなステップがあって、目の半分の機能しかないような魚でも、少なくとも生存競争では有利だったっていう事になります。
その繰り返しでいつのまにか目が発達して、いつのまにか両手両足が伸びて、顔の毛がなくなる代わりに髪の毛だけ残って、眉毛だけ残って、髭だけ残ってと…色んなパターン、奇形が生まれるわけですよ。
さて、ここで話は思いっきり変わって、現時点でもこういう議論は「同じ人間」の中でも進行中で、発達障害だったり奇形だったりっていうふうに呼ばれるような人達について議論されています。
でも、それってたまたま今の時点における社会における「異質」なだけで、今後訪れる未来の世界では、「あの発達障害児と呼ばれた人間が進化の第一歩だった」という可能性だってあるわけですよ。
例えば、たまたま目の見えない人間が生まれたとします。
この社会では目が見えてるほうがそれは得なんですけど、全く別のパラレルワールドでは、むしろ目があったほうが邪魔だったかもしんないじゃないですか。
たとえば、クリストファー・ノーラン監督による「インターステラー」が描く五次元の世界ですね。
五次元の世界があったと仮定して、たとえばその場所だと、目があると刺激が多すぎて、他の機能、本来であれば音を聞いて、そして敵を探る能力が発達しているほうが有利な真っ暗な世界なのに、目を持って生まれたが為にその視覚的な機能にも中途半端に頼ってしまって、耳の能力が退化する事だってありえるわけですよ。
となると、その真っ暗な世界では目はむしろ不必要で、目を持ってたまたま生まれてしまった人は奇形であって、発達障害であって社会不適合者として扱われてしまうわけですよね。
なので、進化とは結局「適者生存」という言葉で全部まとまっちゃうよね、という事なんですよ。
今日は少し難しい話になったのですが、もうちょっと詳しく知りたいなという場合は、『神は妄想である』っていう本がおすすめです。
一応リンク貼っとくので、興味ある方は読んでみてください。
「いや、クロス間違えてるぞ」とかあったら意見ください。それでは。
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