逆境時の立ち振舞いが部下を育てる 武将・山中鹿之介の教え

経営

 経営者は常に何かしらの逆境と対峙している。逆境と対峙する時に人はどうしても自分を憐れみガチになってしまうが、戦国時代の武将・山中鹿之介は違った。彼は戦死し歴史の敗者となったたが、後に彼の息子は鹿之助の意志を引き継ぎ、日本最大の鴻池財閥を生み出す。逆境で見せる経営者の立ち振舞いが良いものであれば同じように部下は付いてくる。

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逆境で才能を輝かせた戦国武将・山中鹿之介

 「自社に現金が数万円しかないのに、いきなり何千万・何億単位の貸倒れが発生する。」「信頼していた部下がお金を餌にするライバル企業に引きぬかれ、ノウハウと顧客を手土産に離反した。オマケにあらぬ風説の流布まで生じている」

 これは極端な例だが、経営者はうまく行っていようと、そうでなかろうと、常に何かしらの逆境と対峙している。

 逆境と対峙する時に人はどうしても逆境を嘆き、自己憐憫に陥りやすい。確かに自分が不利な状況とは誠に嫌なものだ。

 しかし逆境に対して果敢に対峙することは、プラスの結果を生み出すことが多い。(避けられる逆境はもちろん避けるべきことを前提とする。)

 今日は逆境と前のめりに対峙し、子孫が後々その姿勢を受け継ぎ羽ばたいた例をご紹介しよう。

 戦国時代の武将で逆境に生きた人物の代名詞と言えば、「山中鹿之介(やまなかしかのすけ)以下:鹿之助」(1545年〜1578年)である。

 鹿之介は出雲国(現在の島根県)で、滅亡寸前の尼子氏を主君とする「家老」の家系に生まれた次男坊だ。

 鹿之助が大人になった頃には、かつて山陰・山陽八ヶ国(現在の兵庫県・岡山県・鳥取県・島根県)を治めた尼子氏の領土は、出雲国1つ、その領土も半分に萎んでいた。

 しかも権謀術数に長けて、中国地方をほぼ手中に収めていた毛利元就は、雀の額くらいに縮んだ尼子氏の領土を徹底的に攻め立て、鹿之助ら尼子氏側の息の根を今にも止めにかかっている。

 鹿之助はそんな環境のもとに生まれ育った。

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鹿之助は結局死んだが意志は息子が受け継ぐ

 逆境の元に生まれた鹿之助ではあるが、当時の武将たちは服従さえすれば、敵将の元へ仕官するチャンスが幾らでもあった。

 にもかかわらず鹿之助は尼子氏を見捨てず、3度までも尼子氏再興を果たすべく覇者である毛利氏に立ち向かった。

 有名な格言「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」という言葉を胸に、中国地方を舞台に存分に暴れて敵将の首級を次々と取っていく。

 ついには織田信長や羽柴秀吉すら味方につけて、毛利勢を一時的に劣勢に立たせたが、最後には城を囲まれて捉えられた後処刑されてしまった。

 彼の人生は決して成功者のように見えず、ともすれば悲劇的なヒーローのような人生かもしれないが、決してそのようなことはない。

 確かに鹿之助はこの世を去ったが、彼の逆境にあっても対峙する姿勢を受け継いだ男がいたからだ。

 その男とは、鹿之助の長男・幸元(ゆきもと)、のちに江戸時代で日本最大の鴻池財閥を築き上げた鴻池直文(こうのいけ なおふみ)である。

 彼が後の子孫たちに残した「幸元子孫制詞条目」という家訓にはこうある。

 「万端正路を専らとし 王法国法を守り 仁義五常の道に背かず 主君に背かず 父母に孝行し 家内と睦まじくあれ 謙遜であって奢ることなく 自分の仕事を務め上げよ。」

 まさに父の生き方を胸に、息子は江戸の時代にコトを成し遂げたのである。

 今でも鴻池の脈略は、東京三菱UFJ銀行などの現在を代表する企業に受け継がれている。

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逆境の時ほど部下は観察し組織は勢いづく

 リーダーたる経営者が逆境と対峙する時に、それを一番見ているのは部下だ。

 企業がうまく行っている時は自分のことなどあまり見ないのに、彼らは逆境に陥った時ほど経営者がどう行動するのか見ている。

 私達がその時に心から鹿之助のように、「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」の精神で逆境に対して、客観的に解決策を見出し行動することができるならば、部下たちは大いに奮い立ち付いてくる。

 お金ではなく、運命を共にする人間として経営者、企業を選ぶようになるのだ。
 

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