不美人な妻・無弦を儒学者・森田雪斎が選んだ理由

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 男ならば誰しも美女への憧れがあり、どうせ妻にするなら美女が良いと一回は思うものだ。遠く江戸時代でも男性の願望は変わらなかったなか、あえて不美人を嫁に選んだ森田節斎という儒学者がいた。妻の後ろ盾を得た節斎の思想は、吉田松陰・乾十郎ら、近代日本思想の礎を築いた錚々たるメンバーへ影響を与えるようになった。

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時代は変われど男は美女を妻にしたいもの

 男ならば誰しも美女への憧れがあり、どうせ妻にするなら美女が良いと一回は思うものだ。

 そしてこの憧れは昔から変わらない。

 「高尾吉野といわないまでも、せめてもちたや美人妻」と江戸時代の男性たちも、妻を持つなら美人が良いと言っていた。

 ちなみに「高尾」は吉原の、「吉野」は京都島原の有名な美妓だ。

 加えて江戸時代は、女性がやたらと強かった時代であり、ある面では女尊男碑の時代でもあった。

 原因は男性の数が多すぎたからだ。

 江戸の人口の7割が男性で、女性はたったの3割しかおらず、結婚できる恵まれた男性は数少なかったようだ。

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江戸時代でも貰い手のいなかった森田無弦

 しかし、そのような時代でも「容姿」のせいで結婚を諦めていた女性がいた。

 幕末から明治にかけて生きた関西の女学者・森田無絃(もりたむげん:以下、無弦)である。

 彼女は幼いころに痘瘡を患い、稀に見る不美人な女性だった。

 そんな無絃を娶った男性がいる。儒学者の森田節斎(せっさい:以下、節斎)だ。

 節斎は元々は詩人だったが、後に幕末の尊王派儒学者として多くの志士へ影響を与えるようになった人物である。

 節斎が彼女のどこに惚れたかといえば、それは内面の美しさと共有できる価値観であった。

 無弦の本名は「琴子」。琴は古来より日本では「美しいモノの象徴」である。

 しかし彼女は自分が病気を患って不美人となったがゆえに、自ら「弦のない琴」を意味する「無弦」と名乗るようになった。

 無弦に外面の美はなかったが、父親の助けもあって学問を学び、当時の女性としては珍しい漢詩も詠えた。 
 
 しかも彼女は素養が高いだけではなく、性格も奥ゆかしく賢かった。

 節斎はそれを見抜いてプロポーズも漢詩で送り、無弦もそれに漢詩で返した。

 後に節斎の思想は、吉田松陰・乾十郎ら、近代日本思想の礎を築いた錚々たるメンバーへ影響を与えるようになった。

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価値観を尊重し応援してくれる女性に感謝

 郵亭 月黒く夜沈々(月夜は暗く夜は静まり返る)

 涕を揮(ふるい)て君を恋う桜樹の影(涙を流して桜の樹の下で君を想う)

 句を題するに何ぞ煩わさん(澄み切った気持ちでこの句を書く)

 紅濁を借るを光明花を照らして(赤い灯火の光が桜の花を照らす)

 是丹心(貴方への真心がつのる)

 節斎の思想は腐りかけた幕府にとっては過激なものに写り、後に節斎は幕府にその生命を狙われるようになった。

 彼はその間家族と離れ離れになり、京の街で乞食のような生活をして隠遁していたようだ。

 無弦は、命の危険に晒され続けながらも勤皇の志士達へ儒学を教える夫を賢明に支え、2人は終生仲が良かったという。

 苦労の時を共に過ごしてくれる人(パートナー)もやがては老いて行く。

 外見もやがては不美人になっていくかもしれない。

 相手を大切に想う心はいつになって忘れずにいたいものだ。

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