【西郷どん】西郷隆盛の生まれた小さな集落に維新の英傑が次々と生まれたワケ

歴史

 今年の大河ドラマの主役は明治維新のヒーロー、西郷隆盛です。西郷の生まれた下加治屋町は80戸未満の小さな集落でした。ところが、この小さな集落から明治維新以降、30名以上の偉人が輩出されています。もちろん、人のつながりで引き上げられた人物もいるでしょうが、根本的には何か他にも、これほど多くの偉人が同じ地区から生まれた理由がありそうです。

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西郷の生まれた下加治屋町方限は偉人輩出の地

 今年の大河ドラマの主役は明治維新のヒーロー、西郷隆盛(以下、西郷)です。

 西郷の生まれた下加治屋町方限(ほうぎり:今でいう町内会のようなもの)は、当時は80戸未満の小さな集落。

 ところが、この小さな方限から明治維新以降、

  • 大臣・大将級となった者:30名以上
  • 授爵者:30名以上
  • 贈位を受ける者:40名以上

 が生まれています。

 例をあげれば、大久保利通、西郷従道、大山巌、東郷平八郎、村田新八、吉井友美、篠原国幹…など限りがありません。

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薩摩藩独自の青年教育システム、郷中教育

 なぜこれほど多くの偉人が、小さな集落から生まれたのでしょうか?

 その大きな要因は薩摩藩独自の青年教育システム、郷中教育(ごじゅうきょういく)にあります。

 郷中教育とは年齢に応じて同じ方限に住む男性を、

  • 小稚児(こちご、6-10歳)
  • 長稚児(おせちご、11-15歳)
  • 二才(にせ、15-25歳)
  • 長老(おせんし、妻帯した先輩)

 と区分し、年長の者が年下の者を教育するユニークな教育システムです。

 郷中教育の中でも特に重要視されていたのが、「詮議(せんぎ)」という教育でした。

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郷中教育で重要視されたケーススタディ「詮議(せんぎ)」

 「詮議(せんぎ)」とは、今でいうケーススタディ、それに基づくブレーンストーミングのことです。

 実際に起こりうることであっても、すぐには解決策が思いつかないような問題をどうやって解決するか?について、年長の者が年下の者それぞれに問いただし、皆がお互いに意見を交換し合う形式でした。

 たとえば、

殿様の大名行列を横切る者がいた。この不敬者に対して貴方はどのように対応するか?

 とか、

自分の上司となる役人が、農民から搾取した一部のお米を懐に入れている。どうやってこの問題を解決するか?

 といったケーススタディに対して、薩摩の子供達は実践的な会話形式で、あーでもないこーでもないとブレーンストーミングしました。

 詮議はもともと戦国時代に、識字率の低い武士階級で、実戦に備えて師弟を教育するため全国で行われていましたが、江戸時代に入ってからは文治が重んじられるようになり、武士階級でもテキスト形式の学習が広まることによって、次第にその習慣が武士階級からなくなっていました。

 しかし、薩摩藩では、薩摩隼人という武を重んじる価値観に代表されるように、実践に重きをおいた教育を守り続けた結果、詮議という教育形式も残り続けていたのです。

 詮議のお陰で西郷をはじめとして薩摩の子供達は、あらゆる事態に自発的に対応する想像力、発想力、決断力、コミュニケーション能力を小さな頃から培うことができたのです。

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下加治屋町方限は教育を受けた持たざる者の集まり

 これら薩摩藩独自の実践教育の下で育ったことに加えて、西郷の生まれた下加治屋町方限には、もう一つ恵まれた環境がありました。

 それは、下加治屋町方限に住む武士の家庭が、おおよそ持たざる者の集まりだったことにあります。

 西郷の生まれた下加治屋町方限は、下方限という、どちらかと言えば下級武士の住む集落であり、西郷の父も藩に所属する武士としては下から二番目の身分にありました。

 上方限(上級武士の住む地区)の子供達が、その身分ゆえに他の方限に住む子供達と交流を厳しく制限されていたのに対して、下加治屋町方限の子供達は、他の方限にいる子供達と遊んだり、学んだりすることを許されていました。

 「貧居傑士ヲ生ズ」

 とは、西郷隆盛の言葉ですが、江戸時代の厳しい身分制度の中にあって貧すれど、自ら考え自ら動く教育を受け、持たざるゆえに比較的自由に様々な経験を積めたことが、下加治屋町方限に生まれた子供達にプラスの影響を与えたことは言うまでもないでしょう。

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