たとえ相手が大手でも噛みつく時は噛みつくぞっ!薩摩の交渉術

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 豊臣秀吉、徳川家康、そして幕末のイギリスなど、まさに当時で言えば、日本最強、世界最強の権力者達に噛み付いた国、それは薩摩です。関ヶ原の戦いでも大敗したのに、所領の安堵を勝ち取った薩摩は何が凄いのか?とかく強気な交渉で押し通す大手や元請けと渡り合う場面で、薩摩の交渉術には大いに学ぶものがあります。

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強い相手に噛みついては負けるのに、ずっと生き残り続けた薩摩の島津家

 薩摩藩(以下:薩摩)といえば、倒幕と明治維新の立役者という勝者のイメージが先行しますが、そこに至るまでの歴史の中でも、かなりやんちゃな一面を持っておりまして、とにかく強い者に噛みつく習性がありました。

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「噛みつきたいのか噛みつきたくないのか!」と長州力に煽られたら、薩摩は真っ先に「おっさんなめんなよ!」と噛み付いただろう。

 薩摩が噛み付いた相手といえば、豊臣秀吉、徳川家康、そして幕末のイギリスなど、まさに当時で言えば、日本最強、世界最強の権力者達ばかりです。

 しかも噛みつくのは良いのですが、明治維新以外で、薩摩は大抵、敗者の立場に立たされました。

 にも関わらず、薩摩は負ける度にお家存続を許され、むしろ戦いから利を得ることもしばしばでした。

 今で例えるならば、大手企業にシェア争いを仕掛けて連戦連敗、その度に民事再生法にかかるのですが、なぜか戦っていた大手企業から単価の良い仕事を引っ張り出して復活、というような、まさにベンチャー魂を持ったお国柄だったと言えましょう。

 国を潰されそうになった時に、彼らを救ったのは、自らの強みを十分に活かした交渉術にありました。
 
 今日は特に、西軍側に付いて関ヶ原の戦いで大敗したのに、唯一所領の安堵を勝ち取った、薩摩の巧みな交渉術にフォーカスを当てたいと思います。

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関ヶ原で負けても実質は勝ち!薩摩の交渉術

撤退戦で「俺たちは怖いんだぜ!」と印象づける島津の退き口を敢行

 豊臣秀吉亡き後、今でも語り継がれる「関ヶ原の戦い」が起こります。

 この時、島津家の次男・義弘(通称:鬼島津)は、事もあろうに最初は東軍の味方であったにも関わらず、4万の西軍に1,000人の味方しかいない状況で取り囲まれ、生き残るためやむを得ず西軍についてしまいます。

 やがて東軍の勝利はほぼ確定し、義弘の兵は300人にまで減っていました。

 ここで義弘が取ったのは、家康本陣へ真一文字に突撃するという、それこそ捨て身の撤退戦でした。

 10万人対300人という壮絶な撤退戦の中で薩摩の兵は、徳川の軍神と呼ばれる井伊直政に瀕死の重傷を負わせます。

 「島津の退き口」と呼ばれる、しんがりの兵が死ぬまで徹底抗戦を敷く戦いぶりは、徳川勢に薩摩の不気味さを印象づけました。

敗戦の将なのに「遠いから」と上洛要請を断固拒否

 戦いが終わった後、西軍についた武将が次々と処刑されたり、お家取り潰しや流刑に処される中、西軍方についた薩摩にも、ついに敗軍の将として、江戸へお沙汰をもらいに向かうよう、徳川家康から命令が下ります。

 ここで引退してはいたものの、実質的には薩摩で一番の権力者であった長男の義久に、出頭命令が下ります。

 ところが義久は、「えっ!だって薩摩はめちゃくちゃ遠い国ですよ。弟の義弘が西軍に味方してたなんて、田舎にすっこんでる僕が知るわけないじゃないですか!」という言い訳を手紙に綴り、その後も「年取ったから〜、江戸までは遠くていけまへん。」等とのらりくらり、なんと2年も上洛を拒み続けます。

 家康はもちろん…めちゃくちゃに怒ります。

家康の怒りを更に刈りたて徹底抗戦の構え

 薩摩はここで、事もあろうに家康の怒りを更に駆り立てる行動に出ました。

 国境を封鎖し、弟の義弘が主体となって、更なる戦に向けて軍備を整え始めたのです。

 この情報を聞いた家康の怒りは頂点に達し、九州の大名を中心とする3万の大軍を薩摩へ差し向けて、国境付近でにらみ合いを始めたのです。

 対して、1万の軍勢を率いる義久と義弘は冷静でした。

 豊臣政権の残党が本州に多く散らばっていることや、政権がまだ脆弱で謀反を起こす可能性のある武将も沢山いることから、家康が長丁場の戦を自分達にしかけることはないと悟っていたのです。

自分達でわざとトラブルを起こし「トラブル起こしたくないなら俺たちのこと必要だろ」と家康を屈服させる

 厄介な薩摩を相手に、家康もタジタジとなり、遂には交渉で決着をつけようと圧力をかけ始めた矢先、薩摩は更なる精神的な追い打ちを家康にかけます。

 薩摩沖で幕府が国家運営で行っていた、中国・明との貿易船2隻を、海賊に襲わせて沈没させたのです。

 もちろん自分達が黒幕だとは明かしません。「えっ、マジすか!家康さん大丈夫ですか?!」と言いのけたのですね。

 この事件により家康は、武力で島津家を潰せば海賊集団の取り締まりが困難になり、むしろ潰した薩摩の家来たちが海賊になれば、中国とのドル箱貿易が台無しになると感じました。

 家康は戦う気を無くして、遂には薩摩から軍を撤退させ、島津家は負けたにも関わらず、所領を安堵される形となり、誰一人処罰されることもなかったのです。

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自らの強みを適正に把握し最大限に活かせるのは自分だけだ

 この後、薩摩は外様大名の筆頭格としての地位を手に入れ、更には琉球王国の間接統治を担う権利まで家康から手に入れます。

 家康は死ぬまで薩摩を取り潰せなかったことを悔み、死んだ後は遺体を薩摩に向かって葬るよう、家来に指示したと言います。

 なぜ彼らにこれだけのことが出来たかというと、日本で最も遠い地(沖縄を除けば)に薩摩があることや、地の利により古くから海外事情に長けていたことなど強みはあるのですが、これらの強みだけでは到底生き延びることはできなかったでしょう。

 自らの強みを適正に把握し、強みを最大限に活かす交渉を展開することで、強大な権限と台頭に話し合うフィールドを作ったことが、薩摩に生き残りの道を与えたのです。

 とかく現代においても、強気な交渉で押し通す大手や元請けに対して、薩摩のように自らの強みを把握し、強みを活かした交渉ができれば、不利な状況が一転する場面は十分にあるのではないでしょうか。

画像:

ウィキペディア:長州力
Photo credit: tataquax via Visualhunt / CC BY-SA

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