能力があるのに子供への事業承継に失敗した3人の戦国大名

事業譲渡

 企業はゴーイングコンサーン(継続)を目的として作られるものですし、人間が永遠に生きられない以上、経営者はどこかの段階で会社の生き残りをかけ、「事業承継」を考えなければなりません。戦国時代の大名たちも事業承継に悩んでいましたが、事業承継に失敗した3名の例は、今の企業でもあるあるネタとして重なるところがあります。

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トップにとって事業承継は時代を超えた悩み

 帝国データバンクの調査によると、後継者不在で悩む企業は、国内企業の3分の2に相当する66.1%に及ぶと言います。

 更に、社長が60歳以上(高齢社長)の企業は半数の50.0%に達し、社長の平均年齢も過去最高の59.2歳に到達しました。

 平均寿命が伸びていることや、生涯現役で働く経営者が増えていることから、一概にこれらのデータで「後継者不足」と騒ぐのは、ナンセンスかもしれません。

 ただし、企業はゴーイングコンサーン(継続)を目的として作られるものですし、人間が永遠に生きられない以上、経営者はどこかの段階で会社の生き残りをかけ、「事業承継」を考えなければなりません。

 時代や習わしは変われど、トップに立つ人間は、いつの時代も後継者問題で悩んできました。

 そこで本日は、戦国大名で自分には能力があるのに、事業承継に失敗した3人の戦国大名をご紹介したいと思います。

 特にお子さんを継がせようと思っている方は、失敗のパターンから学ぶものが見つかるかもしれません。

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自分は凄いのに事業承継に失敗した3名の大名

1)健康ってやっぱり大事〜蒲生氏郷

 織田信長に13歳で召し抱えられ、「目が違う。こいつは将来大軍を率いる将になるだろう。」と評価された蒲生氏郷。

 信長の予言通り、氏郷はその後、数々の戦で武功を上げるだけではなく、近江商人発祥の地「松坂」を商業の町として反映させるなど、優れた戦国大名として成長していきます。

 その能力は、秀吉にも「100万もの大軍を采配させたいのは、氏郷だけだ。」と言わしめます。

 豊臣秀吉の天下統一後も、氏郷は、伊達政宗をはじめとする東北の強者共へくさびを打つべく、会津(福島県)へ入府し、91万石を拝領する大大名となりました。

 ところが、氏郷はあまりにも仕事に入れ込み過ぎ、当時は子孫を残すために当たり前の慣習だった、側室すら娶ることがありませんでした。

 更には、脂が乗った30代の頃、文禄の役(朝鮮半島侵攻:1592年)において、北方の大名が皆参戦を言い訳して断る中で、彼は九州の最前線へ向かってしまいます。

 無理が祟り、この道すがらで氏郷は体調を崩してしまい、3年後には40歳で帰らぬ人となります。

 先述の通り、正妻しか娶っておらず、跡継ぎの息子(蒲生秀行)は氏郷が死んだ時、まだ12歳でした。

 12歳の経験がない子供は、右往左往するばかりで活躍できず、江戸時代に入ってすぐに蒲生家は断絶します。

 あと20年氏郷が健康だったら、子供たちの統治体制を盤石とし、家を受け継ぐことが出来たのでは?と多くの歴史学者が語り継ぐ、悲運の大名でした。

 健康であることの大事さを、教えてくれる事例です。

2)トップでいるうちは新規開拓を辞めちゃダメ〜大内義隆

 中国地方の覇者といえば、毛利元就を始めとする毛利氏ですが、その前の中国地方覇者といえば、大内義隆でした。

 大内氏は百済王子の末裔と称する、西国一の大大名家でした。

 義隆の時代に大内氏は、中国地方のみならず九州の北側も支配しており、貿易で財を築き上げ、天皇家との蜜月関係にありました。これらの功績により、義隆は当時の武家としては異例の従二位へ上り詰めます。

 1500年代の中盤で、ここまでの官位を与えられた大名は、他には足利将軍家譜代の大名くらいであることからも、その実力が伺い知れます。

 ところが、大内義隆は配下の家来たちの裏切りに傷ついて、領国の拡大を突然辞めてしまい、公家趣味に走ってしまいます。引退して、早いうちに権限を息子へ譲ればよかったのに、義隆はそうしませんでした。

 公家趣味にはお金が必要だからです。

 企業が新規開拓を辞めれば細ぼっていくように、戦国時代の大名も領国拡大を辞めてしまえば、後は細ぼって行くだけです。

 陶晴賢などの有力家臣が「殿〜っ!領国拡大しましょう!」と言っても、義隆は能や和歌にうつつを抜かし、最後には彼に殺されます。

 トップであるうちは自ら陣頭に立ち、新規の領国拡大をしなければ、家臣たちに見下され、事業承継もままならなくなる部分は、現代にも通じるものがあります。 

3)子供をボンボンに育てすぎ〜北条氏康

 戦国時代の関東における覇者といえば、後北条氏です。

 その石高は3代目氏康の時代に、240万石(現在の価値で約2,500億円くらいの規模感)まで到達しますが、このレベルの経済力を持った大名は、安土桃山時代には、織田信長と、その領地を受け継いだ豊臣秀吉、徳川家康しかいませんでした。

 氏康は優れた統治能力により、大規模な検地を行い、税制改正を実施し、更に家臣の軍役などの役負担を把握するなど、領国支配の体制を本格的に整えました。

 まさに、儲かる仕組みを作ることに長けた、敏腕経営者です。 

 偉大な父の後を受け継いだのは、大河ドラマ真田丸にも出てくる北条氏政でしたが、彼は父の関東支配の基盤が脆弱だった時代の苦労を知らずに、「関東覇者の息子」として育ってきました。

 それを暗に示す話として、農民が麦刈りをする様子を氏政が見て、「あの取れたての麦で昼飯にしよう」と言ったというエピソードが、「甲陽軍鑑」には残っています。

 刈った麦はそのまま食べられる訳がありません。麦を干して脱穀した後、最終的に精白するという、庶民の麦を食するまでの過程を氏政は知らなかったのです。つまるところ、氏政はボンボンでした。

 豊臣秀吉による小田原征伐で、呆気無く氏政は敗戦し、切腹を命じられることになりました。

 恵まれた環境に生まれ育ったとしても、厳しい環境に子供を置き、苦労させることで、おごらない後継者を育てる必要性を示す貴重な例と言えます。

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事業承継は業績を伸ばすのと同じくらい重要!

 いずれの話も500年前のものですし、歴史は勝者が作るものと言われますから、上記の話が100%の史実かは図りかねるところもあります。

 とはいえ有能な経営者で、幾らお金があったとしても、事業承継を先々から考えていないと、自分に何かあった時、企業が潰れてしまう点は、昔の状況とよく似ています。

 歴史を遡っても、一つの家系が長期間に渡って体制を持続し続けているのは、ご存知の通り日本の天皇家くらいのもので、それくらい事業承継とは難しいものです。

 数字を取るべく攻めの体制を取ると同時に、守りの分野である事業承継についても、今のうちから考えておくのは得策と言えましょう。

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